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友情(091205-091211)

2010-01-04 11:28阅读:
情 (091205-091211)

著:中野孝次 翻译:康伟孟

当我们离开有父母或兄弟相互依偎的暖巢而进入学校时,我们会惊奇地遇见这样的事实------这个世界上还存在年龄与我们相仿,但在气质、性格还有才能上都和我们与众不同的他人。这样的体验极为重要。有些人在这样的事实面前反而非常欣喜,并积极地与人亲近。当然,也存在一些与人格格不入、看起来有些阴森怪异的人。

于是,就出现了趣味相投的朋友,以及怎么都令人生厌的家伙。这个现象本身就是一件非常不可思议的事情。能和趣味相投的朋友待一起的话,自然而然就会开心起来;而话不投机的哪怕只有一人都会使气氛变得不和谐。物以类聚,人以群分。人们会自然而然地选择与自己喜欢的朋友待一起,并下意识地排除异己。

会有这样的倾向也是人的天性,自古有之。不过,对与自己有差异或怎么都无法喜欢的人就不认可,就排除的做法能够帮你发现真正的自己吗?人唯有接受了与自己有所差异的他人的存在才能真正地认识自己。仅选择与自己喜欢的朋友聚在一起,也就是物以类聚的做法是无法发现真正的自己的。

此外,如果仅停留在单纯的好恶这一生物学的阶段的话,人就无法获得真正的友情。想拥有真正的友情就必须拥有坚定的信念及宽容的心,即认同、接受与自己有所差异的他人的存在的宽广胸怀。

每当我思考和友情有关的话题时,我总会用上下面的句子:
“切莫责备脚步跟不上这只鼓节拍的人。他或许正在专心地听着另外一只鼓的拍子。”(选自梭罗《森林的生活》

我最早是从鹤见俊辅先生那里听到这个句子的。当时两人正在一起吃饭,偶然中鹤见先生提到了这个句子。从那以后,这个句子几乎成为了我为人处事的至理名言。

梭罗的话似乎在努力地告诉我们:惟有怀着认同与自己步调不一致的他人的存在的宽容之心才真正认同了人的价值。迫使所有人都按照一只鼓的节拍行进的社会,在法西斯时代出现过,不过,那是一个不认同人的多样性的社会。认同与自己有所差异的他人的存在,认同人性的多样化,正是友爱的起点。

人无法独自生存,也没有比孤身一人更悲惨的事情了。

“没有比独自一人待在天堂更痛苦的事情。”(选择歌德《格言》

深知独居天堂之痛苦的歌德比谁都了解:人只有在人群中相爱、受伤后才能够成长。到底歌德对相爱的痛苦及幸福的体会有多深,想必有读过他写的《少年维特的烦恼》的朋友都能体会得到。歌德的这句话似乎在告诫我们:人不能惧怕伤害!惧怕伤害的话,就永远无法知道相爱的愉悦。

人不能孤独地活着。独自一人存活于世的话,就无法成为真正意义上的人。

  “独自一人待着的话,人就无法成为真正的自己。独自一人的状态如同把自己从自己身上抽走,剩下的只有更多的孤独。这样的做法和将木材放在洞穴里腐烂的做法如出一辙,是不可取的。”(选自阿朗《幸福论》)

木材燃烧成火焰后方为木材,万不可将木材放在孤独的洞穴中让它腐烂。阿朗的比喻非常独到、有力。然而,在这个满是机械般刺激和娱乐的现代社会,充斥着太多对这个比喻的深意一无所知而选择窝在洞穴内让人“腐烂”的诱惑。说这样的洞穴是密室也不为过吧。据我的了解,将自己关在一个狭小的房间里,听音乐、看电视,与其和他人待在一起更愿意选择“别管我”的年轻人不在少数。比起和人说话,他们更愿意孤独地待着。比起与人相处,他们更乐于和机器交流。阿朗的那句话告诫我们:一旦陷入“拒绝交流症”这样的洞穴,你就无法遇见真正的自己。

正因为有了朋友才让我们认识到这个世界上还有另外一个可以相互信任的他人(=另外一个自己)的存在。正是与这样的他人(=另外一个自己)邂逅的幸福建立起人与人之间的相互信任。我们不妨说那些从未享受过这种幸福,那些把“木材”扔在洞穴腐烂的人,已经失去了出生的意义。

对于这些人来说,除了大胆地走进他人的心扉,别无其他解救方法。对于因为胆怯或害怕受伤,或是怕被愚弄而总是逡巡于自己洞穴的人,与朋友邂逅的幸福永远与他们无缘。


友情(091205-091211)

友情
日语原文:
第七課  友情

中野孝次

 ぼくらが親やきょうだいのいる暖かい巣を離れて学校に入ったとき、初めて、この世には自分と年は同じだが自分とは気質も才能も性格も違う他者がいる、という事実につき当たる。この体験は重要だ。ある者は違う仲間がいるという事実にかえていきいきし、積極的に彼らと親しもうとする。薄気味悪いこの他者の群れになかなかなじめない者もいる。
 気心の合う者と、どうしても好きになれない者とが出てくる。これはまったくふしぎだ。好きな者と一緒にいるのはそれだけで楽しいが、気にくわぬ者が一人でも加わっていれば気分がトゲトゲしくなる。おのずから好きな仲間同士が集まり、異質な者を排除しようとする。
 こういう傾向は人間の自然であって昔からあったが、自分とは異なる者、どうしても好きになれぬ者を許せぬ、だから排除すると言うのでは、どうやって人は自分を発見することができるのか。自分とは違う他者が存在する、という事実を知って、人は己というものを知る。好きな者同士が集まっては、それは同類が集まったというだけで自己発見にはいたらない。
 
 また、好きとか嫌いという生物学的階段にとどまっていては、真の友情は得られない。友情には意志と寛恕の心、すなわち自分とは違う者を認め、受け入れるひろい心がいる。
 だからぼくは友情について考えるにあたって、まず最初に次の言葉をとりあげる。

    <太鼓の音に足の合わぬ者を咎めるな。その人は、別の太鼓に聞き入っているのかもしれない。> 
                                                 (ソロー「森の生活」より)

 ぼくが最初にこの言葉を聞いたのは、鶴見俊輔さんからだった。一緒に食事をしていて、なにかのはずみに彼がそれを口にした。そのとたんに、これはぼくとって指針となるような大事な言葉になった。
 ソローのこの言葉は、歩調の合わぬ者をさえ容認する寛恕の心を持つことが、人間を認めることだと力強く告げている。全員が1つの太鼓の音に足を合わせて行進する社会は、ファシズムの時代がそうだったが、人間の多様性を認める社会ではない。自分と違う人間の存在を認めること、人間性の多様性を認めること、それが友愛の出発点なのだ。
 人は一人では生きなれない。一人っきりであるほど大きな尾大きな不幸はない。

<転国に一人でいたら、これより大きな苦痛はあるまい。>
                              (ゲーテ「格言的」より)

たとえ天国であっても、一人っきりでいるのだったらこれほどの苦痛はないというゲーテは、人間は人間のなかで愛したり傷ついたりすることによって成長する存在だということを、だれよりもよく知っていた人だった。愛することの苦しみと幸福を彼がどれほど深く味わったかを、彼の「若きヴェルテルの悩み」を読んだ人は知っているだろう。傷つくことを恐れてはならない、傷つくことを恐れていては、人はついに愛の喜びを知ることができないだろう、とそれは言っているかのようだ。
 つまり、一人っきりでいては人は人間になることができない存在なのである。
 
    <一人でいる限り、人は己自身であることが出来ない。人は自分から抜け出すほど、一層自分となる。また一層よく自分の生きていることを感ずる。薪を穴倉の中でくさらせてしまってはならぬ。>
                                        (アラン「幸福論」より)

薪は燃え、炎となることによって薪となる、それを孤独の穴倉の中で腐らせてはならぬ、と力強い比喩だ。だが、あまりにも機械的な刺激と娯楽の多い現代社会では、それと知らずに薪を穴倉のなかでくさらせてしまう誘惑が多すぎる。密室と言っていいだろう、狭い空間の中に閉じこもって音楽を聴き、ヴィデオを見、他者と共にいるよりも一人で「放っといてくれ」という若者がたくさんいることをぼくは知っている。会話よりも孤独がいいのだ。人間と付き合うより機械と付き合ってるほうが気が楽なのだ。こいう“人間接触拒否症”といった穴倉に落ち込んでいては、君はついに真の自分に出会うことはないだろうと、アランは言っているのだ。

ぼくらは友を持つことによって、世の中には自分のほかに信じあえるもう一人の他者=自己がいるということを知る。そういう他者=自己にめぐりあえた幸福が、人間への信頼を育てる。その幸福を知らぬ者、薪を穴倉のなかでくさらせたままにしておく者は、人として生まれた甲斐がないと言ってもさしつかえないだろう。
 それには思い切って他人の心の中にとびこんでみるしかない。臆病から、あるいは傷つきはしないか、バカにされやしないかの恐れから、いつまでも自己の穴倉のなかに逡巡している者には、ついにこの幸福は訪れない。
                           「大修館書店『高等学校国語』による」


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