水的东西差异from091230-100104

2010-01-04 11:43阅读:
水的东西差异from091230-100104
著:山崎正和 翻译:康伟孟
望着竹筒敲石(驱赶鸟兽的装置)动作的样子,我不由得从它的可爱之处感受到人生的闲散。可爱的竹制跷跷板的一端装有戽斗,而引水筒则一点一点地在积水。蓄水的紧张在安静中不断加剧,待引水筒装满水后,跷跷板迅速倾斜、落下、并溢出水来。这样的紧张刚一结束,引水筒又立马往上跳,并敲击石块,发出“空----”一声的朦胧而又悦耳的声响。
瞧着瞧着,你就会发现这种单纯、缓慢的节奏在无止境地重复着。蓄水的紧张加剧,又迅速放开时,这种徒劳又像什么事情都没发生过一样重新开始。朦胧的声响镌刻光阴,让庭园的静寂和时间的长短更显突兀。究竟是水在流淌,还是时光在流淌,我不得而知。然而,竹筒敲石让我们感觉到确有东西在流淌。当你试图去停住竹筒敲石的动作后再来感受时间时,你就会发现这样的举动只能让你更深刻意识到它是一个让人无法停止的存在。
我曾在纽约一家大银行的等候室里见过这样的竹筒敲石。在众多被人们介绍的日本古文化中,或许西洋人就是因为竹筒敲石那素朴的声响而被吸引的吧。只可惜,那家纽约银行的员工们都太忙了,他们连聆听两个声响之间间隔这样的短暂的闲暇都没有。比起竹筒敲石,窗外华美的喷泉作为当地认同的水艺术似乎更容易让人感觉舒畅。
流淌的水?喷涌的水?
说起来,无论是欧洲还是美国确实都可以在街道广场的各个角落看到美丽的喷泉。只要稍微去下有点名气的庭园,你就很容易发现各种精心建造的喷泉都成为了景致的中心。著名的罗马郊外德斯特家族别墅的庭园里面就有数百个的喷水群。树木和花草在这里都成了陪衬,造型雄伟、轰鸣不止的喷泉林立的宏大景观让我不由得叹为观止。它看起来像摇摆着的巴洛克雕像,与其说它在喷溅,还不如说它发出轰鸣,并在空间静止一般。
是时间之水?还是空间之水?
忽地这样一想,你会发现在日本的传统文化里面像喷泉这样能够让人发出如此感慨的东西实在掐指可数。喷泉之美被如此喜好造小溪、架瀑布、挖水池的日本人一直遗忘到了近代。传统的力量真的不可小视,即便是日本大都会的喷泉也是无法与西洋的相媲美的。或许也正是这个缘故,无论在东京还是大阪的街道广场笨拙的喷泉总让人感觉缺乏表情。
西洋的空气较为干燥或许是人们建造喷泉的原因之一吧。也有人认为自罗马时代以来的管道技术促成了喷水技术的发
展。然而,日本人选择建造人工瀑布而不是喷泉应该不是因为这样表面的原因。在日本人眼中,只有自然流淌的水才是美的,它怎么也不应成为像粘土一样压缩扭曲、进行各种造型处理的对象吧。
不言而喻,水本身并无固定的形状。对“水的无形”,日本人和西洋人应该抱有不同的喜好吧。虽然日本佛教中有“行云流水”之说,不过这样的思想反而被思想之前的感性所印证。与其说它是对外界的一种被动的态度,还不如说它是一种“对无形的东西无所畏惧的积极心态”吧。
看不见的水与看得见的水。
如果说感受到水的流淌才最为重要的话,我们也就没有必要直接看见水的流淌了。单是听断断续续的水滴声,在声音的间隙中用心去感受水的流淌就足够了。这样看来,说竹筒敲石是展现日本人观赏流水极致的道具也不为过吧。
水的东西差异from091230-100104
(图片来源:http://www.flickr.com/photos/blackteajjustice/3542713946/
日语原文:
第九課 水の東西
                  山崎正和
 「鹿おどし」が動いているの見ると、その愛嬌のなかに、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音を立てるのである。
 見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れて止まらないものの存在を強調していると言える。
 私はこの「鹿おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介される中で、あの素朴な竹の響きが西洋人の心をひきつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行で人々はあまりに忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。
 流れる水と、噴き上げる水。
 そういえばヨーロッパでもアメリカでも、街の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎっしりと埋め尽くしていた。樹木も草花もここで添え物にすぎず、壮大な水の造形がとどろきながら林立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音を立てて空間に静止しているように見えた。
 時間的な水と、空間的な水。
 そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統の中に噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘って水を見ることをあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので、現代の都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、街の広場はどことなく間が抜けて、表情に乏しいのである。
 西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造形する対象ではなかったのであろう。
 言うまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、恐らく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏付けられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心のあらわれではなかっただろうか。 
 見えない水と、目に見える水。
 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。ただ断続する音の響きを聴いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本人が水を観賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。