高村光太郎的诗《牛》
2009-03-05 09:39阅读:
高村光太郎(Takamura, Kotaro1883-1956)
梁艳萍译
高村光太郎(1883~1956),
日本诗人、 雕刻家。 号碎雨。生于
东京,东京美术学校雕刻科毕业。早年从
与谢野宽学习短歌创作,为“明星派”的主要成员。1906至1910年间旅欧,倾慕并研究法国19世纪雕塑家
罗丹的雕刻。回国后参加“面包之会”,发表具有唯美颓废派风格的诗歌。以后同“
白桦派”
理想主义文学合流,将追求人性的强烈热情熔铸于平明而富
有汉诗风格的诗歌之中。他还参加过“民众诗派”的诗歌现代化及其民主自由化的活动。悼念亡妻的诗集《智惠子抄》(1941),在哀切、甘美的抒情方面闻名于世。
第二次世界大战期间,写过一些“爱国主义”的诗歌。战后发表《愚人小传》(1947)和《典型》(1950),作过一些自我批评。他的主要著作还有诗集《路程》(1914)和美学论集及关于美学和诗歌的译著。
牛步态舒缓

无论平原,山地,道路,河川
朝着自己想去的地方
一直前行
牛不能跳不能跃
一步一踏
不顾腾起的碎砂尘泥灰土
依旧是步态迟缓
牛不急于行事
尽力依赖地面行走
全然相信自然之力能承载自己的行走
一步一步,体味着走自己之路的乐趣
必然地迈出脚步
而非凌空蹈虚
无论是还是非
绝不急于迈出一足

是牛
迈步就是最后
是牛
从不回头
即使陷入泥沼也不回首
依旧是步态缓慢读行走
牛不鲁莽
但却非常傲慢
以两只角排除障碍
牛不乖张暴戾
仅做自己希望的事
仅做顺其自然的事
牛不做判断
可是,牛却是正直的
牛不为所做之事后悔
牛为所为之事强化自信
尽管如此,牛依然步态迟缓

无论行至何处
相信自然
任由自然
一踏一声,融入自然
无论是迟还是早
自己走自己的路
不腾云
不唤雨
不浮于水面
立足于坚实的大地
牛行走于平凡的大地
不为高蹈于地面之偶然欺骗
也不愿羡慕他人
牛深谙自己的孤独
边吃边想着自己喜欢的食物
安详地直面孤寂
放逐自己在益逾深广的孤独之中
牛发出“哞”的啼叫
那时在呼唤自然
自然也以“哞”来回应
牛像被爱抚的婴儿一般
尽管如此,牛依然步态迟缓
尽管如此,牛依然步态迟缓
牛普遍愚笨也不灵巧
即使决心做想做的事委实不易
即使开始也难以敏捷落利
不过,牛也异常敏感
能辨识三里之外野兽的声音
能直觉最善最美
能明确预见未来
看啊
牛的眼睛有睿智的光辉
那眼里能看到自然的形与魂

不以有形的玩具而喜
不为魂灵之影像所魅
温润安详的牛眼
长睫毛黑眼珠的牛眼
在日常中唤醒永远的牛眼
牛眼是圣者之眼
牛把关注自然当做自己的事
注视着
没有东张西望仓皇四顾
也没有怒目而视
牛看到的自然就是自己的
看到外面的同时看到内里
看到内里的同时看到外面
这并非牛在努力
而是牛性自然而然
牛还是依旧步态缓慢
牛即使这样固执
却也不随便论争
不到万不得已不会去争论
平常不过静静地听着周围的一切
然后做着自己的工作鞠躬尽瘁
牛力量强调
可是,牛的力量是潜力
而非弹簧
是螺丝
是拉车爬坡向上的螺丝之力
牛排除障碍时
显得那么灵巧
牛的力是耐力
即使为邪恶的斗牛士卑劣的利刃刺中
全身插着十支二十支枪
一边摇晃一边还在进击
不断进击
牛之力是悲壮的
牛之力是伟大的
既便如此牛依然步态缓慢

到处行走
边走边吃草
吃大地孕育的青草
茁壮自己巨大的身体
灵活亲柔的眼睛
厚实的舌头
坚硬的蹄脚
严肃的两只角
充满爱情的啼声
强健的筋肉
还有正直口水的巨大的牛
牛步态缓慢
牛行走于平凡的大地
作于1913
牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍(注、おど)らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土を掘り石をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せてゐる(注、ゐ=い)自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はって行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是でも非でも
出さないでは堪(注、たま)らない足を出す

牛だ
出したが最後
牛は後へはかえらない
足が地面へめり込んでもかえらない
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしゃらではない
けれどもかなりがむしゃらだ
邪魔なものは二本の角にひっかける
牛は非道をしない
牛はただ為たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなって為た事を後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処(注、どこ)までも歩く
自然を信じ切って
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につっ込み喰い込んで

遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちゃんと知っている
牛は喰べたいものを又喰べながら
ぢっと淋しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く
牛はもうと啼いて(注,もうに点点)
その時自然によびかける
自然はやっぱりもうとこたへる(注、もうに点点)
牛はそれにあやされる
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思い立ってもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける

最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちゃを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の眼だ
牛は自然をその通りにぢっと見る
見つめる
きょろきょろときょろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとっての努力ぢゃない

牛にとっての当然だ
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いてゐる
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつっかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりっこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃にかかる時でも
十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつっかける
つっかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を喰ふ
大地から生えてゐる草を喰ふ
そして大きな体(からだ)を肥す

利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎を持った大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみ志(し)めて歩く
牛は平凡な大地を歩く
上周因为不可抗拒的原因没有发稿,晚上补发的稿子又不知为什么河蟹了,今天再次补发另外一首翻译诗歌与大家分享。
粒子